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真善美とは何か

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本質辞典(essential.pedia)
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人類! 注目

「The 本質」講

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18世紀に活躍した高名なドイツ哲学者カントが唱えた「真善美」という観念がある。
カントは、人間の精神は「知(知性)」と「情(感情)」と「意(意志)」、すなわち「知情意」で構成されるとの考え方を広めた学者でもある。

辞書によると、真善美とは下記のものだ(日本国語大辞典)。
「認識上の真と、倫理上の善と、審美上の美。理想を実現した最高の状態」

これは、「真善美」を「知情意」に紐づけて解釈したものと考えられる。
「認識上の真」は、「真」を「知」に紐づけて解釈したものである。
「倫理上の善」は、「善」を「意」に紐づけて解釈したものである。
「審美上の美」は、「美」を「情」に紐づけて解釈したものである。
つまり、「理想を実現した最高の状態」とは「精神の理想を実現した最高の状態」を指す。

しかし、本当に「真善美」は「精神の理想を実現した最高の状態」なのか。

まず、精神は「知情意」ではなく「知情」、すなわち「知」と「情」で構成されている。
「意」は「情」の一種でしかない(「精神とは何か」参照)。
ならば、そもそも、「知情意」ではなく「知情」に紐づけて「真善美」を解釈すべきである。

「知」は、精神の外にある現実の事物を頭の中に表す認識の領域だ。
認識には、認識をインプットとする思考プロセスのアウトプットである認識も含まれる。
思考は、プロセスとしての認識でもある。
(本来、「知」は想像の領域でもあるが、ここでは話を単純化するため、想像を捨象する)

認識は、現実を把握するためにつくられる。
現実の世界の生き物である人間には、生きるため、現実に対応することが欠かせない。現実に対応するため、現実を把握することが欠かせない。
よって、認識は、それが表す事物に当てはまるように、すなわち「真」であるようにつくられる。

しかし、「可能性とは何か」で示したように、「真」には程度がある。
ゆえに、ただ「真」であるだけで、認識が「理想を実現した最高の状態」であるわけではない。「最高に真」でなければ、認識が「理想を実現した最高の状態」であることにはならない。

つまり、「真」は、程度の差こそあれ、認識が持つ機能なのだ。
言い換えれば、「真」は、「知」が持つ機能なのである。

そして、「真」である認識は、現実への適切な対応するための思考を生む。それに基づく行動を生み、ときにマイナスの価値を生むこともあるが、プラスの価値を生む。
例えば、「真」である自然法則の認識は、科学技術の体系となって、現実への適切な対応するための思考を生む。それに基づく行動を生み、ときにマイナスの価値を生むこともあるが、プラスの価値を生む。

簡単に言えば、「真」は、「知」が持つプラスの機能なのである。

ただし、「真」は認識自体が持つ機能ではない。
認識が対象である事物にどの程度当てはまるかは、実証や論証によって検証されることで見出されるものであることに注意が必要だ。

他方、「情」は、認識の作用である価値と、それに対する心の反応である感情の領域である。
人が生む価値には、大別して、他者にとっての価値と、自分にとっての価値がある。
(ここでは、話を単純化するために、人にとっての価値だけを考える)

その内、人が生む他者にとっての価値が「善」である。
一般的に、他者にとっての価値を生むこと、すなわち、他者に価値を与えることを「善を成す」と言う。「成す」は「生む」ということだ。
よって、「善」は、「情」の「理想を実現した最高の状態」ではない。

また、人が生む他者にとっての価値には様々なものがある中で、「善」は、人が生む他者にとっての価値の総称となっている。
ゆえに、「善」は、必ずしも「最高の価値」であるわけではない。

無論、「善を成す」状態が「情」の「理想を実現した最高の状態」であるとの考え方もできるだろう。
他者に価値を与えることを自分にとっての価値とする、すなわち「利他を利己とする」状態が「情」の「理想を実現した最高の状態」であるとの考え方だ。

しかし、必ずしも「利他を利己とする」状態が「情」の「理想を実現した最高の状態」であるわけではない。
例えば、ビジネスは、対価を伴う「善」を成す活動、すなわち、対価を伴う「利他を利己とする」活動である。特に「情」が「理想を実現した最高の状態」で行う活動ではない。
対価を伴う価値は「善」ではないと考えることもできるが、それは限定的すぎる。

対して、人が生む自分にとっての価値には、人が生む他者にとっての価値である「善」のような総称がない。例えば「喜怒哀楽」の「喜び」「楽しみ」のような分類があるだけである。
よって、人は様々に、人が生む自分にとっての価値を総称しているのが実態だ。

私は「楽しみ」「楽」と呼んでいるが、「喜び」すなわち「喜」と呼ぶ人もいるだろう。「快」と呼ぶ人もいる。「美」と呼ぶ人もいる。
人が生む自分にとっての価値を総称として「美」と呼ぶ場合、「美」は、「情」の「理想を実現した最高の状態」ではない。「美」には、様々な種類があり、程度もピンからキリまであるものだ。

無論、「美」は「最高の価値」に限定されるとの考え方もできるだろう。
しかし、何が「最高の価値」かは人によってまったく違うから、それらを「美」として括るのは乱暴だ。

つまり、「善」と「美」は、単純に、人が生む価値の分類なのだ。
精密に言えば、「善」と「美」にマイナスの価値は含まれないだろうから、「善」と「美」は、人が生むプラスの価値なのである。

そして、価値は「情」の領域で生まれる認識のプラスの作用であり、作用は機能である。
ゆえに、「善」と「美」は、「情」が持つプラスの機能である。

つまり、「真善美」は、精神が持つプラスの機能なのだ。
しかし、「プラスの機能」だけでは分かりづらいから、「プラスの価値を生む機能」と言い換えよう。
また、ただ「価値」と言えば「プラスの価値」を意味することにする。
したがって、「真善美」とは「精神が持つ価値を生む機能」である。

人は、「真」をもって他者に「善」を成し、自己に「美」を得るのである。

なお、冒頭の辞書には、下記の補足が加えられている。
・「真善美の三つは、それぞれ論理学・倫理学・美学という独立の学の主題であるとみられる場合もある」
・「価値論で、相互に関連し合った統一的な価値とみられることもある」

どちらも納得できる内容だ。
しかし、後者において、「真」が価値の一種であることが前提となっている点は、誤りである。

Good? or Not Good?

  1. 凡人 より:

    人を陥れても金を稼ぐ…
    これこそ人生の真理…と考える人にとっての真善美は、成立するのか?
    この人にとつての善は、善か悪か?
    故安倍首相の美しい国とは、美しいの?
    シンプルな答え下さい。

    • 横田宏信 より:

      おっしゃる「真理」は、「価値」の意味での「正しさ」であり、「現実の事物に当てはまる」という意味の「正しさ」ではないように思われます。
      だとすれば、「善」も「美」も「価値」ですから、おっしゃる真善美は「価値」の意味となります。
      「価値」は、人によって異なるものですから、私からのお答えは「人によって異なります」となります。

  2.     より:

    面白くない

  3. 匿名 より:

    目に見えない概念上の事柄について論じているように読めます。
    「他者(世界)にプラスの影響を与えたい」、
    ということをとても遠回しに表現されているように感じました。
    ぼくはこの記事に希望を感じました。
    ありがとうございます。

  4. 澁田 粋 より:

    目に見えない概念上の事柄について論じているように読めました。
    「他者(世界)にプラスの影響を与えたい」、
    ということを表現されているように感じます。
    すばらしいお考えですね。
    世界(言葉)はよいものだという希望をいだきました。
    ありがとうございます。

  5. 海霧朝臣 より:

    真善美の探究【真善美育維】

    【真理と自然観】

    《真理》
    結論から言って, 真偽は人様々ではない。これは誰一人抗うことの出来ない真理によって保たれる。
    “ある時, 何の脈絡もなく私は次のように友人に尋ねた。歪みなき真理は何処にあるのかと。すると友人は, 何の躊躇もなく私の背後を指差したのである。”
    私の背後には『空』があった。空とは雲が浮かぶ空ではないし, 単純にからっぽという意味でもない。私という意識, 世界という感覚そのものの原因のことである。この時, 我々は『空・から』という言葉によって人様々な真偽を超えた歪みなき真実を把握したのである。

    我々の世界は質感。
    また質感の変化からその裏側に真の形があることを理解した。そして我々はこの世界の何処にも居ない。この世界・感覚・魂(志向性の作用した然としてある意識)の納められた躰, この意識の裏側の機構こそが我々の真の姿であると気付いたのである。

    《志向性》
    目的は何らかの経験により得た感覚を何らかの手段をもって再び具現すること。感覚的目的地と経路, それを具現する手段を合わせた感覚の再具現という方向。志向性とは或感覚を具現する場合の方向付けとなる原因・因子が具現する能力と可能性を与える機構, 手段によって, 再具現可能性という方向性を得たものである。
    『意識中の対象の変化によって複数の志向性が観測されるということは, 表象下に複数の因子が存在するということである。』
    『因子は経験により蓄積され, 記憶の記録機構の確立された時点を起源として意識に影響を及ぼして来た。(志向性の作用)』
    我々の志向は再具現の機構としての躰に対応し, 再具現可能性を持つことが可能な場合にのみこれを因子と呼ぶ。躰に対応しなくなった志向は機構の変化とともに廃れた因子である。志向が躰に対応している場合でもその具現の条件となる感覚的対象がない場合これを生じない。但し意識を介さず機構(思考の「考, 判断」に関する部分)に直接作用する物が存在する可能性がある。

    《思考》
    『思考は表象である思と判断機構の象である考(理性)の部分により象造られている。』
    思考〔分解〕→思(表象), 考(判断機能)
    『考えていても表面にそれが現れるとは限らない。→思考の領域は考の領域に含まれている。思考<考』
    『言葉は思考の領域に対応しなければ意味がない。→言葉で表すことが出来るのは思考可能な領域のみである。』
    考, 判断(理性)の機能によって複数の中から具現可能な志向が選択される。

    《生命観》
    『感覚器官があり連続して意識があるだけでは生命であるとは言えない。』
    『再具現性を与える機構としての己と具現を方向付ける志向としての自。この双方の発展こそ生命の本質である。』

    生命は過去の意識の有り様を何らかの形(物)として保存する記録機構を持ち, これにより生じた創造因を具現する手段としての肉体・機構を同時に持つ。
    生命は志向性・再具現可能性を持つ存在である。意識の有り様が記録され具現する繰り返しの中で新しいものに志向が代わり, その志向が作用して具現機構としての肉体に変化を生じる。この為, 廃れる志向が生じる。

    *己と自の発展
    己は具現機構としての躰。自は記録としてある因子・志向。
    己と自の発展とは, 躰(機構)と志向の相互発展である。志向性が作用した然としてある意識から新しい志向が生み出され, その志向が具現機構である肉体に作用して意識に影響を及ぼす。生命は然の理に屈する存在ではなくその志向により肉体を変化させ, 然としてある意識, 世界を変革する存在である。
    『志向(作用)→肉体・機構』

    然の理・然性
    自己, 志向性を除く諸法則。志向性を加えて自然法則になる。
    然の理・然性(第1法則)
    然性→志向性(第2法則)

    【世界創造の真実】
    世界が存在するという認識があるとき, 認識している主体として自分の存在を認識する。だから自我は客体認識の反射作用としてある。これは逆ではない。しかし人々はしばしばこれを逆に錯覚する。すなわち自分がまずあってそれが世界を認識しているのだと。なおかつ自身が存在しているという認識についてそれを懐疑することはなく無条件に肯定する。これは神と人に共通する倒錯でもある。それゆえ彼らは永遠に惑う存在, 決して全知足りえぬ存在と呼ばれる。
    しかし実際には自分は世界の切り離し難い一部分としてある。だから本来これを別々のものとみなすことはありえない。いや, そもそも認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう?
    言葉は名前をつけることで世界を便宜的に区分し, 分節することができる。あれは空, それは山, これは自分。しかして空というものはない。空と名付けられた特徴の類似した集合がある。山というものはない。山と名付けられた類似した特徴の集合がある。自分というものはない。自分と名付けられ, 名付けられたそれに自身が存在するという錯覚が生じるだけのことである。
    これらはすべて同じものが言葉によって切り離され分節されることで互いを別別のものとみなしうる認識の状態に置かれているだけのことである。
    例えて言えば, それは鏡に自らの姿を写した者が鏡に写った鏡像を世界という存在だと信じこむに等しい。それゆえ言葉は, 自我と世界の境界を仮初に立て分ける鏡に例えられる。そして鏡を通じて世界を認識している我々が, その世界が私たちの生命そのものの象であるという理解に至ることは難い。鏡を見つめる自身と鏡の中の象が別々のものではなく, 同じものなのだという認識に至ることはほとんど起きない。なぜなら私たちは鏡の存在に自覚なくただ目の前にある象を見つめる者だからである。
    そのように私たちは, 言葉の存在に無自覚なのである。言葉によって名付けられた何かに自身とは別の存在性を錯覚し続け, その錯覚に基づいて自我を盲信し続ける。だから言葉によって名前を付けられるものは全て存在しているはずだと考える。
    愛, 善, 白, 憎しみ, 悪, 黒。そんなものはどこにも存在していない。神, 霊, 悪魔, 人。そのような名称に対応する実在はない。それらはただ言葉としてだけあるもの, 言葉によって仮初に存在を錯覚しうるだけのもの。私たちの認識表象作用の上でのみ存在を語りうるものでしかない。
    私たちの認識は, 本来唯一不二の存在である世界に対しこうした言葉の上で無限の区別分割を行い, 逆に存在しないものに名称を与えることで存在しているとされるものとの境界を打ち壊し, よって完全に倒錯した世界観を創り上げる。これこそが神の世界創造の真実である。
    しかし真実は, 根源的無知に伴う妄想ゆえに生じている, 完全に誤てる認識であるに過ぎない。だから万物の創造者に対してはこう言ってやるだけで十分である。
    「お前が世界を創造したのなら, 何者がお前を創造した?」
    同様に同じ根源的無知を抱える人間, すなわち自分自身に向かってこのように問わねばならない。
    「お前が世界を認識出来るというなら, 何者がお前を認識しているのか?」
    神が誰によっても創られていないのなら, 世界もまた神に拠って創られたものではなく, 互いに創られたものでないなら, これは別のものではなく同じものであり, 各々の存在性は虚妄であるに違いない。
    あなたを認識している何者かの実在を証明できないなら, あなたが世界を認識しているという証明も出来ず, 互いに認識が正しいということを証明できないなら, 互いの区分は不毛であり虚妄であり, つまり別のものではなく同じものなのであり, であるならいかなる認識にも根源的真実はなく, ただ世界の一切が分かちがたく不二なのであろうという推論のみをなしうる。

    【真善美】
    真は空(真の形・物)と質(不可分の質, 側面・性質), 然性(第1法則)と志向性(第2法則)の理解により齎される。真理と自然を理解することにより言葉を通じて様々なものの存在可能性を理解し, その様々な原因との関わりの中で積極的に新たな志向性を獲得してゆく生命の在り方。真の在り方であり, 自己の発展とその理解。

    善は社会性である。直生命(個別性), 対生命(人間性), 従生命(組織性)により構成される。三命其々には欠点がある。直にはぶつかり合う対立。対には干渉のし難さから来る閉塞。従には自分の世を存続しようとする為の硬直化。これら三命が同時に認識上に有ることにより互いが欠点を補う。
    △→対・人間性→(尊重)→直・個別性→(牽引)→従・組織性→(進展)→△(前に戻る)
    千差万別。命あるゆえの傷みを理解し各々の在り方を尊重して独悪を克服し, 尊重から来る自己の閉塞を理解して組織(なすべき方向)に従いこれを克服する。個は組織の頂点に驕り執着することはなく状況によっては退き, 適した人間に委せて硬直化を克服する。生命理想を貫徹する生命の在り方。

    美は活活とした生命の在り方。
    『認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう? 』
    予知の悪魔(完全な認識をもった生命)を否定して認識の曖昧さを認め, それを物事が決定する一要素と捉えることで志向の自由の幅を広げる。予知の悪魔に囚われて自分の願望を諦めることはなく認識と相互作用してこれを成し遂げようとする生命の在り方。

    《抑止力, 育維》
    【育】とは或技能に於て仲間を自分たちと同じ程度にまで育成する, またはその技能的な程度の差を縮める為の決まり等を作り集団に於て一体感を持たせること。育はたんなる技能的な生育ではなく万人が優秀劣等という概念, 価値を乗り越え, また技能の差を克服し, 個人の社会参加による多面的共感を通じて人間的対等を認め合うこと。すなわち愛育である。

    【維】とは生存維持。優れた個の犠牲が組織の発展に必要だからといっても, その人が生を繋いで行かなければ社会の体制自体が維持できない。移籍や移民ではその集団のもつ固有の理念が守られないからである。組織に於て使用価値のある個を酷使し生を磨り減らすのではなく人の生存という価値を尊重しまたその機会を与えなければならない。

    真善美は生命哲学を基盤とした個人の進化と生産性の向上を目的としたが, 育と維はその最大の矛盾たる弱者を救済することを最高の目的とする。