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愛とは何か

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辞書や辞典、事典によると、愛とは下記のものである。
①「親子・兄弟などがいつくしみ合う気持ち。また、生あるものをかわいがり大事にする気持ち」(デジタル大辞泉)
②「親子、兄弟などが互いにかわいがり、いつくしみあう心。いつくしみ。いとおしみ」(日本国語大辞典)
③「人間の根源的感情として,全人類に普遍的であり,人格的な交わり,あるいは人格以外の価値との交わりを可能にする力」(ブリタニカ国際大百科事典)

①②の「親子、兄弟など」の「など」は、言葉の普遍的な定義に使うべきではない。
無論、「親子、兄弟」は単なる例であり、愛は「親子、兄弟」に限定されるものではない。

③にあるような「全人類に普遍的」なものかどうかは怪しい。愛を持たない人もいるかもしれない。

①の「いつくしみ合う」、②の「互いに」、③の「交わり」は、愛を相互的なものと捉えていることを示すが、愛には「人類愛」のような一方的なものもある。

①②③に共通する点は、愛が感情であるということである。
①の「気持ち」は感情だ。
②の「いつくしみ」「いとおしみ」も感情である。「心」ともあるが、「心」とそれが生むものである「感情」の混同は、よくあることである。

また、愛には対象である事物があり、それが人であり、しかも自分ではなく他者であるということも共通点になっている。

これらのことを踏まえつつ、愛とは何かを改めて考える。

感情とは、認識と想像の作用である価値に対する心の反応である(「感情とは何か」参照)。
よって、感情は、価値の種類によって分類できる。
価値は、自分/他者の軸で、自分にとっての価値と、他者にとっての価値に分類できる。

無論、自分にとっての価値に対する感情は、自分の中に生まれる。
対して、他者にとっての価値に対する感情は、自分の中には生まれない。他者にとっての価値を感じることはできないからだ。

しかし、人は、他者にとっての価値を想像することができる。
加えて、想像した、他者にとっての価値が自分にとっての価値であるかのように感じることができる。
そして、他者にとっての価値が自分にとっての価値であるかのように感じるときの「他者」への感情が愛であると考えることができる。

ただし、価値自体は認識できない感覚であり、感情で代替されて認識される(「価値とは何か」参照)。
このことを踏まえると、愛とは「その感情が自分の感情であるかのような他者への感情」であることになる。

これなら、愛すべてをカバーできそうだ。
また、愛以外の感情をカバーしそうもない。

愛は、感情という生理的な反応の一種である。
だから、痛みと痒みの境界線が曖昧であるように、愛と他の感情との境界線が曖昧になるのは避けられない。ゆえに、特定の生理的な反応以外の事物の場合ほど確たることは言えない。
しかし、当たらずとも遠からず、だろう。
愛とは「その感情が自分の感情であるかのような他者への感情」である。

ならば、である。
日本では、伝統的に感情を「喜」「怒」「哀」「楽」すなわち「喜怒哀楽」に分類する。
このことに従えば、愛とは「その喜怒哀楽が自分の喜怒哀楽であるかのような他者への感情」であることになる。
平たく言えば、愛とは「あなたが嬉しいと自分も嬉しいと感じる相手への感情」だ。

そして、それは、ときには憎しみ(怒りの一種か)さえも混じる、ときには感謝(喜びの一種か)一色となるような、多種多様で複雑怪奇な感情である。
とても具体的に説明しつくせるものではない。

ただ、多くの場合、愛は「その喜怒哀楽が自分の喜怒哀楽であるかのような他者」、すなわち「愛する人」の「喜び」と「楽しさ」を願う感情を主とするものであることは間違いないだろう。

だから、人は、愛する人の喜びと楽しさに繋がる価値を生む行動をとる。
そういう行動をとること自体が自分の喜びと楽しさになる。
その結果、愛する人の喜びと楽しさが実現されれば、それがまた自分の喜びと楽しさになる。

なお、愛は、他者にとっての愛を想像できなければ生まれない。
また、感情がなくては生まれない。
よって、愛は、想像力と感情を併せ持つ存在しか生むことができない。

そして、想像力と感情を併せ持つ唯一の存在は、人間である。
人間とは「想像で感情を動かすもの」であるからだ(「人間とは何か」参照)。
つまり、愛は人間だけが生むものである。

また、人間すべてが生むとは言い難いし、常に生むとはもっと言い難いが、ほとんどの人間が生涯で何度か生むことがあるものだろう。
その意味で、愛は「全人類にほぼ普遍的」なものである。
だから、人を愛することは人間らしいことであると言える。

しかし、本来、人間は自分の感情にしか興味がない。
それにも関わらず、特定の他者の感情を自分の感情であるかのように感じることは、特別なことなのだ。
そのせいか、愛は、他の感情に比べて強いものである場合が多い。

それで、対象が感情を持たない事物であっても、単なる「好感(好き)」という感情が強くなると、それを「愛」と呼ぶことがある。
例えば、「趣味愛」や「仕事愛」がそうである。
しかし、それは「愛のように強い好感」であって、愛ではない。

対象が他者ではなく自分である「自己愛」も、「愛のように強い自分への好感」であって、愛ではない。
自分は感情を持つが、自分の感情は想像するまでもないからだ。

ただし、対象が人ではなくても、感情を持つ動物である「動物愛」は、愛かもしれない。
そう考えると、「他者」には動物も含むという前提で、愛とは「その感情が自分の感情であるかのような他者への感情」であることになる。

Good? or Not Good?