さて、世の中が考える本質は、「事物の根本」であるとのイメージに準じるものであり、通常、「事物の根本的に重要な属性」を意味する。
しかし、何がどのように「重要」であるかは、人によって異なり得る。
多くの人は気づいていないようだが、世の中が考える本質は、事物の属性についての主観的な「意見」なのだ。
対して、「水の普遍的な特徴」である水の本質が人によって異なり得ない客観的な「事実」であるように、「ある事物の普遍的な特徴」である本質は、人によって異なり得ない客観的な「事実」である。
「ある事物の普遍的な特徴」である本質が「事物の見方の根本」であることも、人によって異なり得ない客観的な「事実」である。
また、世の中は、普遍の事物だけでなく個別の事物も本質を持つと考えている。
例えば、我々は、「この問題の本質」という言い方を耳にする。「この問題」は個別の事物であるから、「この問題の本質」という言い方は、個別の事物が本質を持つという考え方に基づくものだ。
しかし、個別の事物は、個別的な属性しか持たない。
普遍的な属性は、頭の中で個別的な属性が普遍的な属性すなわち「ある事物すべてに共通する属性」として認識されたものである。
ゆえに、個別の事物は、普遍的な属性の一種である「ある事物の普遍的な特徴」すなわち本質を持たない。
つまり、世の中が考える本質は、「ある事物の普遍的な特徴」である本質とはかけ離れたものなのだ。
繰り返すが、世の中は、「本質とは何か」が分かっていない。
しかも、世の中は、「本質とは何か」が分かっていないだけではない。
世の中は、この世(現実世界)の殆どの事物を対象に、「ある事物が何か」が分かっていない。
世の中が考えるこの世の殆どの事物は、本質で規定した「ある事物そのもの」ではない。
世の中が考えるこの世の殆どの事物は、偶有性で規定した「ある事物らしきもの」でしかない。
既述したように、自然界の基礎的な事物は「ある事物そのもの」である。
しかし、この世の事物の種類が無数である中で、本質で規定した自然界の基礎的な事物の種類は、ほんの微々たるものでしかない。
例えば、世の中が考えるネコは、「ネコそのもの」ではなく、「ネコらしきもの」ものでしかない。
実際、「ネコの普遍的な特徴にはどのようなものがあるか?」との問いに対する答えの多くは、ネコ固有の「丸い目」「三角耳」「ニャーという鳴き声」だろう。
しかし、これらはみな、「ネコの一部(一つを含む)にしか共通しない属性」、すなわちネコの偶有性である。
ネコの本質である「ネコの普遍的な特徴」を知る者は少ない。
例えば、ネコ固有の遺伝子があるとすれば、それは「ネコの普遍的な特徴」だから、ネコの本質の一種だろうが、ネコ固有の遺伝子を知る者は少ない。
ネコ固有の遺伝子を知っていても、それが見えているからネコをネコと認識しているわけではない。
ネコ固有の遺伝子を知る者の頭の中のネコも、「丸い目」「三角耳」「ニャーという鳴き声」などの偶有性で規定した「ネコらしきもの」なのだ。
同様に、世の中が考える社会の事物は、すべてが「ある事物らしきもの」である。
そもそも、「社会」が「社会らしきもの」でしかない。
「社会が何か」についてはいまでも諸説あって、それらが一つに集約される様子はない。
社会の本質、すなわち「社会の普遍的な特徴」についての合意もない。
さらに、社会の基礎的な事物である価値も「価値らしきもの」である。
価値の本質、すなわち「価値の普遍的な特徴」もまだ謎のままなのだ。
よって、価値の一種である商品価値も「商品価値らしきもの」である。
商品価値を生む活動であるビジネスも「ビジネスらしきもの」である。
ビジネスを行う人であるビジネスマンも「ビジネスマンらしきもの」である。
ビジネスマンの集まりである企業も「企業らしきもの」である。
人類は、まだまだこの世をまるで分かっていないのだ。
たとえ分かっているつもりでも、分かっていない。
分かっていないということさえ、分かっていない。
つまり、人類は、自らが無知であることを知らない。
だから、世界は遅々として良くならないのだろう。